日本での歴史
チェコ共和国を原産国とするプラシュスキー・クリサジーク。
彼らが日本に初めてやって来たのは1998年。
ブリーダー・山口環さんの実父・彫刻家の松田芳雄さんがプレゼントとして受け取ったクサント、ガーインカの2頭です。
松田さんは、当時、チェコで行われた国際的なボランティア活動に参加し、その際出会った、活動の中心人物であり愛犬家だったチェコの画家イジー・ハンプル氏夫妻に<秋田犬>をプレゼントしました。
松田さんは秋田県出身で秋田県・大館(オオダテ)に工房をかまえていたのです。
そして、そのお返しに…とチェコ国内でも数少なかったプラシュスキー・クリサジーク(プラハのねずみとり)が贈られました。
彼が参加したのは、一夜にしてナチスに滅ぼされたチェコの村「リディツェ」の焼け跡となった野原に、 当時殺害された子供達の銅像を建てる、というものでした。
<リディツェ村の悲劇>は、ヨーロッパでは教科書に出てくるほど大きな歴史的事件です。ナチスは一晩で成人男性全てを銃殺し、女・子供をアウシュビッツなどの収容所に送り、村全体を破壊し火を放ちました。跡形もなく村を消滅させたのです。このとき奇跡的にも、殺人工場と呼ばれた収容所から終戦と同時に帰ることができた子供達は、以後、「リディツェの子供達」と呼ばれました。
彼らが老齢になった2007年現在でも彼らの呼び名は変わりません。
その「リディツェの子供達」の一人である女の子が彫刻家となり、「リディツェの子供達」と題する82体の石膏像を一生を費やして作り続けました。
石膏像は、彼女の同級生や仲良し、彼女が遊んでもらったお兄さん・お姉さんたちでした。
戦争の悲劇を永遠に忘れないために、形として残すことが必要だと思った彼女は、この石膏像を銅像にしてリディツェ村跡の草原に建立したい、と考えました。
これを知った地元の芸術家が彼女を手伝いはじめ、数々の企業や多くの資産家が資金援助を申し出、この活動が世界中に知れ渡り、あちこちから平和を願う銅像作りを手伝うために寄付金が集まりました。
松田さんは、日本から集まった寄付金を持ってチェコへ飛び、自らも彫刻家としてお手伝いを、と 何年にも渡りチェコへ通いました。石膏像を作った彼女は、松田さんがチェコへ通うことになった遙か昔に亡くなり、完成品を見ることはありませんでしたが、遺志を受け継いだ多くの人々の志で銅像は完成。
こうして2002年6月、全ての「子供達」は、かつてリディツエ村だった場所に帰ることができました。
チェコではこの60年、毎年6月のリディツェの記念日に、銅像の建つ草原で、大統領も参加する大きな式典が催されています。
その日のテレビではナチスの記録フィルムとともにリディツエの銅像が、ニュースなどで大きく取り上げられます。
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そのような平和を願う芸術家の親交からクリサジークは日本にやってきました。
チェコのクリサジーククラブは、クリサジークを世界中の人に愛される犬に育てたいと願っており、できれば日本でクリサジークを広めて欲しい、という意志を伝えてきました。
忙しい実父にかわってその大役を果たすことになったのが山口環さん。
時を同じくして、陶芸家である夫の仕事の関係で山口さんは一家でチェコへ渡りました。
当初クリサジークはチェコ国内でも約1500頭。
山口さんがチェコで犬と暮らせたのは、しばらくたってからでした。それがティナとマーチェック。
山口さんはチェコのクリサジーク・クラブの正式な会員となり、クラブ員と積極的に交流を深め、犬についての知識を増やしていきました。
血統も毛並みも良いティナは、ドッグショーにも出陳、山口さん自らハンドラーとなって出た大会でBOBを獲得しました。
2年後、山口さんのクリサジークは6頭に増えていました。6頭全員プラス一緒に出国した愛犬ラブラドールのマルとともに無事帰国した山口さんは、日本でのクリサジークの繁殖に取り組みました。
そして2001年5月15日、日本で最初の仔犬となるアニチカ、アストル、アレッシュが誕生。
続いて20日にビエトゥカが生まれました。
アニチカ、ビエトゥカは北海道へ、アストルは千葉県、アレッシュは愛知県へともらわれていきました。
以後、毎年仔犬が生まれ、里親のもとで元気に育っています。
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